2014年12月21日

シベリアの果てから脱走 1万3000キロ、過酷な逃亡劇

  今日は日経から以下のコラムを抜粋して紹介します。
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  第2次世界大戦が終結した時、ソ連の捕虜となったドイツ軍兵士は2万人を数えた。コルネリウス・ロストは1944年に捕らえられ、1年後に重労働25年の刑を言い渡された。送られた先はシベリアの果ての、いてつく鉛鉱山だった。囚人たちは鉛鉱山の穴の中で暮らした。警備兵たちは、彼らを情け容赦なくこき使い、毎日12時間働かせた。運がよければ週に1回、1時間だけ太陽を拝めた。囚人は疲労で死ななかったとしても、鉛中毒で確実に死んだ。周囲に果てしなく広がるのは、凍りついた無の世界。それでもロストは、とにかく脱走を試みるべきだと考えた。

  ロストはすぐに逃げ出したが、そのせいで仲間の囚人の食糧はほぼゼロにまで減らされた。11日後に捕まったロストは餓死寸前の囚人仲間にひどく殴られ、死にかけた。それから3年が過ぎた頃、ロストは再び脱走の機会を見つけた。

  収容所の医師だった仲間のドイツ人捕虜が、特権的な地位を利用して脱走に向けた準備を進めていた。地図、食糧、現金、衣服、スキー、さらには銃まで隠し持っていた。ところが彼はガンであることが判明、脱走計画を断念する。代わりにロストに脱走してくれるよう頼んだ。1つ条件があった。脱走に成功したら、ドイツにいる妻に連絡してほしい。

 1949年10月30日、医師は警備兵たちの注意をそらし、その隙にロストは診療所を抜け出した。計画は単純だった。西に向かって、できるだけ速く、できるだけ遠くまで逃れる。追われるのは間違いなかったが、収容所から320キロ離れれば、警備兵たちも捜索をあきらめるはずだとロストは考えた。そこから南に向かい、中国に入る。

 ロストは毎日最低32キロ進むという厳しい目標を自分に課した。吹きすさぶ寒風といてついた大地は過酷を極めたが、人がいないのは好都合だった。火を使わないようにして、凍った食べ物を少しずつ食べた。1カ月が過ぎた頃、2人の遊牧民のトナカイ飼いに出会った。彼らはロストに対して共感するところがあったようだ。ロストをキャンプに招き入れ、その後の3カ月間面倒を見てくれた。

 遊牧民と冬を過ごしたことは、ロストにとって非常に役立った。魚を釣り、動物を狩る方法、間に合わせの道具でテントを作る方法、コケを使って火をおこす方法など、シベリアの荒野で生きる技術を身につけられたのだ。ロストはこの経験から、人の助けを借りることの重要さも学んだ。しかしそれは、危険を招くこともあった。

 1950年6月、ロストは自分と同じ逃亡者3人と出会った。刑務所から脱獄したロシア人で、冬は猟師、夏は山師として暮らしていた。ロストは1年間彼らの仲間となり、チームを組んで仕事をした。6月〜10月までは1日12時間、砂金をとった。秋までには砂金が小さな山になった。彼らはそれを山分けにした。

 仲間の一人グリゴーリは金塊を持っていた。囚人として金鉱山で働いていた時にくすねたものだ。その金塊を見つけた仲間たちが、殺し合いを始めた。その結果、ロストとグリゴーリだけが生き残った。グリゴーリは、今や極度の被害妄想にも陥っていた。5日後、グリゴーリはロストの砂金も盗み、ロストを崖から突き落として置き去りにした。

 ロストは瀕死の状態だったが、またしても親切な遊牧民に救われた。彼らはロストの傷を手当てし、回復に力を貸してくれた。その後、ハスキー犬の1頭を与え、送り出した。ロストはその犬をビレムと名づけた。1951年夏、ロストが鉛鉱山から脱走して20カ月が過ぎた。だが中国国境ですら、まだ1280キロも先だった。運良く中国人のトラック運転手が中国国境まで乗せて行ってくれたものの、国境は通行禁止になっていた。怪しんだ警備兵がビレムを撃ち殺し、ロストは再び逃亡しなくてはならなかった。

 1952年初頭までに、ロストはアラル海の東まで到達していた。そこで短期間、地元の地下活動組織のメンバーと生活を共にした。彼らはロストをソ連から脱出させると約束した。北に向かってカスピ海を回り、カフカスを通ってイランに入るという。彼はついにソ連を脱出した。3日後、ロストは国境に近いイランの町タブリーズにいた。彼は警察署に行って事情を説明したが、イランの警察は彼をソ連のスパイと考え、逮捕してしまった。

 ロストは首都テヘランに連行され、何週間にもわたり、毎日尋問を受けた。トルコに移住している叔父を呼んで自分の身元を確認してくれ、とロストは訴えた。イラン側は同意し、1週間後、ロストの叔父が彼の独房に足を踏み入れた。

 長い逃亡生活で痩せ衰えていたため、叔父はロストを見ても甥だとはわからなかった。だが叔父はロストの母のアルバムを持ってきていた。ロストは叔父に、母が写った1枚の写真を見てくれと言った。昔、ロストがその写真の裏に日付を書き込んだ――母の誕生日にプレゼントとして、母にその写真を渡した日だ。警官が写真を引っ張り出して裏返した。裏には「1939年10月18日」とあった。

 ロストは釈放され、叔父とともに空路アンカラに飛び、その後、アテネ、ローマを経て、ミュンヘンに到着した。1952年12月22日、ついに故郷の地を踏んだ。旅の始まりから3年近くが過ぎていた。距離にして1万3000キロの旅であった。

posted by toyoharu at 21:39 | 埼玉 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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