2014年09月30日

噴石で6カ所骨折も生還の男性が語った「地獄絵図」

 今日は、産経ニュースから以下の記事を紹介します。
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 とっさの行動が命を救った。埼玉県熊谷市の会社員、加藤佳幸さん(29)は、噴火直後の御嶽山の山頂付近で容赦なく降り注ぐ噴石を体に浴び、6カ所を骨折する重傷を負いながら、頭だけは守って一命を取り留めた。頂上付近の山小屋で一夜を過ごし、ヘリで救出された加藤さんは、病室で父親と再会。惨状の一端を語った。

 加藤さんは27日、登山サークルの仲間とともに御嶽山に登り、山頂付近で噴火に直面した。「地獄絵図のようだった」。救助後の28日夕、連絡を受けて熊谷市から病院に駆けつけた父、寿さん(59)に、加藤さんはこう振り返ったという。

 寿さんによると、加藤さんは噴火時に山頂付近にいた。「バーンという噴火の音がして『やばい』と思って逃げたが、火山弾が降ってきた」と語った。山小屋に駆け込む時間的余裕はなく、落下物から身を守るため、腕を持ち上げて頭をガードした。その上から火山弾が無慈悲に降り注いだという。

 その衝撃で、加藤さんは左右の鎖骨や腕など6カ所を骨折する重傷を負った。しかし、頭を守る姿勢でじっと耐えたことで、命は救われた。足下から熱に襲われたためか、足にはやけどを負っていた。周辺で噴石の直撃を受け、倒れた人の姿も目に入ってきた。

 全身傷だらけとなった加藤さんは、一緒に登山した仲間らと頂上付近の山小屋に避難。仲間には自分を残して下山するように伝え、1人で山小屋にとどまったという。一夜明けた28日朝、山小屋で救助され、自衛隊のヘリで長野市の病院に運ばれた。

 登山仲間から連絡を受け、寿さんは加藤さんが御嶽山に登っていたことを知った。「まさか、御嶽山に行っていたとは知らなかった。生きていることを知り、本当にほっとした」。寿さんは胸に手を当て、そう語った。

 病院で再会し、寿さんが「生きていてよかった」と声を掛けると、佳幸さんは「迷惑を掛けて悪かったね」としっかりとした口調で答えたという。
posted by toyoharu at 23:23 | 埼玉 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月29日

異国の地で知る日本語の美しさ〜ロシアからの報告

  今日は、日経から池上彰氏のコラムを抜粋して紹介します。
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  私たちはふだん、どれだけ意識して日本語を使っているでしょうか。美しい日本語を話そうとしているでしょうか。そんな自戒をするきっかけを与えてくれる言葉に出合いました。ロシア・ウラジオストクでの出来事です。

 今月初め、ロシアのハバロフスクやウラジオストクを取材しました。ウラジオストクの町は、2012年に開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)に合わせて再開発が進みました。地元の極東国立大学と3つの大学を統合して極東連邦大学が誕生し、APECの会場を、そのまま大学の一部としました。

 この大学の国際関係学部に日本語学科があります。日本語を学ぶロシアの若者は、どんな動機なのでしょうか。私がインタビューした学生の多くは、親が日本との貿易に関係していて日本語の習得を勧められたとのことでしたが、1人の女子大生は違いました。

(学生) 「日本語は音楽のように美しい言葉なので、勉強したかったのです」
仰天しました。私たちが日常話している日本語が、この女子学生には音楽に聞こえたのです。

で、勉強してみて、どうでしたか。
(学生) 「やっぱり美しい音楽だと思いました」
思わず頭(こうべ)を垂れてしまいます。私たちは、美しい音楽を奏でているでしょうか。
日本文学を学んでいるというので、好きな作家を聞くと、川端康成の名前が。なるほど。これは定番。『伊豆の踊子』かな『雪国』かな?

(学生) 「『山の音』です」
これまた絶句。60歳を超え、老いを自覚するようになった実業家が、深夜に響く山の音を死の予告と恐れながらも、なおも恋心を燃やすという小説は、外国の女子大生には(日本の現代の学生にも)、理解が困難ではないかと思えるのですが。
川端文学の本質を示すのは、実はこうした作品群なのだと私は思っていましたから、そこまで把握している理解の深さに感動してしまいました。気を取り直して、もう一問。他に好きな作家はいるかな?

「ハルキ・ムラカミ」の名前が出てほっとしたのですが、次に出た名前は「エンチ・フミコ」でした。まさかロシア極東の地で円地文子について語り合うことになるとは。
で、円地のどんな小説が?

(学生) 「『女坂』です」
うむむ。この日本文学への造詣の深さ、恐るべし。いまどきの日本で、円地文子のことを知っている学生がどれほどいることか。まだ学部の4年生だというのに、日本語は流暢でした。私には、彼女が発する日本語こそが音楽に聞こえたものです。

 思い返せば、私の大学時代は、トルストイやツルゲーネフ、ドストエフスキーに傾倒。ロシア人作家の人間観の深さやロシア社会の複雑さに圧倒されました。いわばその逆バージョンだと考えれば納得はできますが、この教養の深さに、さて、日本の学生は太刀打ちできるのでしょうか。「ヤバイ」「マジっすか」という日本語を常用している学生たちの姿を思い出してしまいました。
posted by toyoharu at 21:51 | 埼玉 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月28日

爆音、噴煙、人が埋もれた 下山者、ザックに命救われる

 今日は、朝日新聞から以下の記事を紹介します、大変な事態になりました。
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 「うつぶせのまま噴煙をかぶって埋もれていく人が3人はいた」
噴火当時、御嶽山の山頂付近にいて28日午前に岐阜県下呂市に下山した女性3人が報道陣の取材に応じ、噴火当時の様子を生々しく語った。

 千葉県松戸市の69歳と73歳と、栃木県日光市の65歳で、いずれも主婦、3人で登っていた。山頂の剣ケ峰。御嶽神社の社務所の裏で、昼食を食べようとザックを下ろした時だった。「すごい爆音が聞こえて、見たら噴煙が上がっていた」

 うち2人は、社務所のひさしの下に頭を入れて逃げ込み、「命拾いした」。岩が落ちてくる。「肩や頭をけがした人たちがいた。うつぶせのままちぢこまり、灰に埋もれていく人が数えただけで3人はいた」

 辺りは一時、噴煙で真っ暗になった。足元に灰が積もり、「これで熱くなったら、死んじゃうんだろうな」と思った。しばらくすると明るくなり、順に抜け出したが、体が埋まってリュックやストックだけしか見えず、動かない人もいたという。

 残る1人(69)はひさしの下に入れず、並んだ仏像の横に座った。ザックで頭を覆い、落ちてくる石を防いだ。「後で見ると、中に入っていた金属製の水筒がぺちゃんこになっていた。このザックが私の命を守ってくれた」

 ひざから下が火山灰に埋まった。その足元に、絶命したようにみえる人が2人いた。「その人たちの重みで私の足は上がらなかった。一緒の2人が私の足をかき出してくれて抜け出せた」

 男性が社務所のガラスを割り、「中に入れ、入れ」と言ってくれた。社務所の中には、背中を打って横たわっていた人がいたという。「最初は『痛い、痛い』と言っていたが、30分ぐらいしたら動かなくなってしまった」

 山小屋の人から、下山を勧められ、「けがしている人たちを見捨ててくるようで……」と後ろ髪をひかれながら「火山灰の中を雪山を滑り降りるように下山を続けた」という。27日は「五の池小屋」で一夜を明かした。まきストーブもあり、食事もけがの手当てもしていたという。「布団で寝られた。ほっとした」と振り返った。

 「幸運にも社務所の横にいて最初に逃げ込めたから助かった。目の前で亡くなった方がたくさんいた。早く家族の元に帰れることを祈っています」と話した。
posted by toyoharu at 18:44 | 埼玉 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月27日

恋人の便りを待つような気持ち

  今日は、朝日新聞beから日野原重明先生のコラムを紹介します。
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  8月の終わり、そわそわした気持ちで、私の俳句の友、小林凜(りん)君を我が家に迎えました。彼は大阪在住の中学生俳人で、この秋、私との共著『冬の薔薇(ばら) 立ち向かうこと 恐れずに』(ブックマン社)を出版しました。

  雨が降りそうで降らない午後でした。私はベランダにある木製のツインベンチに凜君と並んで座り、長年、丹精込めて作り上げた庭について、色々と話しました。

  春には白と赤の2本のハナミズキ、梅の老木も見頃です。夏は幹の白いサルスベリが鮮やかな赤い花をつけます。ナンキンハゼは、秋になると緑から黄、最後は真っ赤に葉の色が変わります。オリーブの苗を2本植えました。7年ほどすると実を結び、オリーブオイルが採れるそうで、楽しみにしています。

  中に入り、大きな一枚ガラスの窓の話をしました。庭が一枚の大きな絵のように見えます。頑丈な二重窓なので、大通りの騒音は遮断されますが、同時に雨の音や秋を告げるコオロギの鳴き声まで遮ってしまうと、凜君に話しました。私は「アルミサッシ 音を遮断する コオロギの音も」と詠みました。寡黙な凜君がどう感じたか、気になりました。

  それから凜君の肩に手を置き、記念写真をとりました。新しい本についても編集者を交えて話しました。凜君と私が交わしてきた俳句の往復書簡が載るということでした。

  以前もこのエッセーに記しましたが、凜君は小学生の時、いじめに屈することなく俳句に没頭し、「ランドセル俳人」と呼ばれ、脚光を浴びました。中学生の今も俳句は彼を支え、日々のつらい経験のすべてが創作の糧と考えるだけの、勇気を与えてくれるそうです。彼の送ってくれる俳句には絵が添えられ、それがまた詩情豊かで、私は彼との文通を心の絆の証しとして、大切に保存しています。生きているからこそ味わう、楽しさ、ほろ苦さ……。様々な思いを俳句に織り込んで、少年は確実に成長している。肩を並べて話しながら、私はそう感じていました。

  彼は13歳、私は10月4日に103歳を迎えます。90歳の年の差があるのに、私は気づくと彼からの便りを待ち焦がれる、まるで恋人のような心持ちになっていたのです。
posted by toyoharu at 21:58 | 埼玉 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月25日

肺移植 母と子の命懸けの戦い

  今日は、YAHOOニュースから以下の記事を紹介します。
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  母親の肺の一部を、最も小さな単位に切り分け、2歳の男の子に移植する世界で初めての手術に、岡山大学病院が成功しました。母と子が命懸けで臨んだ闘いに密着しました。

  岡山大学病院肺移植チーフの大藤剛宏准教授は「目は開くか? 目は開かんか? ちょっと、息しんどいか、大丈夫?」と声をかけた。人工呼吸器の管を通されながらも、懸命に応える2歳の男の子。

  2014年5月に、重い肺の病気「間質性肺炎」を発症し、ほとんど呼吸ができない状態となっていた。大藤准教授は「人工呼吸でね、酸素もマックス(最大)。今、生きていくために、今の医学では最高のことをしていますから」と話した。

  助かるには、肺の移植しかない。検査の結果、移植に適合するのは、母親ただ1人。しかし、成人の肺は大きすぎ、乳幼児への移植はできないとされる。

  そこで踏み切ったのが、「肺区域移植」だった。区域とは、肺として機能できる最も小さな単位。今回の手術は、母親の左肺の一部を区域に切り分け、子どもの両側の肺に移植させるというもの。

  両親への説明の際に、大藤准教授は「世界で誰も経験がないような方法をとりますので、それに付随する、要は未知のリスク。もう分からない。勝算はありますけれども、保証はできないです。どうでしょうか? やりますか?」と問いかけた。

  幼い命を助けるために、これしかないと臨んだ手術は、11時間にも及んだ。そして、世界で初めての試みが成功した。

  それからおよそ3週間。男の子は今、自分で呼吸ができるまで回復している。大藤准教授は「多くの肺の病に苦しんでいる子どもたちに、生きる希望の1つになってくれるといいなと思っています」と話した。
posted by toyoharu at 21:12 | 埼玉 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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